2014年3月9日日曜日

カロリーベースの食糧自給率はナンセンス?


近年、カロリーベースで食糧自給率を計算することに批判が高まっている。金額ベースで見れば日本農業は世界第5位とも言われる。実際のところはどうなのか、考察してみた。

 

最近「食糧をカロリーベースで考えるなんてナンセンス。金額ベースで考えるなら日本は世界第5位の農業大国」という話をよく聞く。自由主義経済学の祖、アダム・スミスの「諸国民の富」を読むと興味深いことに気がつく。食糧の値段というのは、ちょっと変わった性質があるのだ。

 

「諸国民の富」では水を例にしている。水は不足すると、金持ちが金銀財宝を山と積んでも、コップ一杯の水が欲しくなる。そういう生命維持に欠かせないものだから、水は余分に確保しようとする。すると「在庫」がだぶつくわけだから、水はタダみたいな値段に下落する。水の価格形成は極端になるのだ。

 

コメや麦などのカロリーを稼げる基礎食糧も水と同じだ。不足は餓死者の発生を意味する。そのため余分な量を確保すると「在庫のだぶつき」となり、市場原理で価格が大幅に下落する。生命維持に欠かせない水や基礎食糧は、平和な時は非常に安くなり、不足すると暴騰するという極端な価格形成をする。

 

金額ベースでは日本は世界第5位の農業大国、に見える。しかし「鎖国」しているおかげだということに気付いている人はどのくらいいるだろうか。世界的に見て高い給料をもらっている日本人が高い価格でも野菜などを買うことで膨れ上がった数字。「鎖国」が終わればどうなるだろうか?

 

「鎖国」をやめて海外の農産物輸入が進めば、農産物の価格は世界平均に近づくだろう。すると農業生産額は10分の1に落ちるだろう。「世界第5位の農業大国」の化けの皮がはがれ、金額ベースで考えた場合の順位は大幅に降下するだろう。

 

つまり日本は「世界第5位の農業大国」というより、「世界第5位の高価格食品購買国」なのだ。安い農産物が流入すれば、高価格で販売できてきた食品は金額ベースで大幅に下落し、農業全体が売り上げる生産額も今の10分の1に小さくなるだろう。金額ベースの思考だけでは危険なのだ。

 

金額ベース思考の危うさはバブルの頃の土地の値段にも表れている。誰もが土地を欲しがったあの頃は、日本列島全体の土地の資産価格は2400兆円にものぼった。しかしバブルが崩壊し欲しがる人がいなくなると半分にまで下落した。金額ベースの姿は「虚像」なのだ。

 

金額ベースの食糧自給率を主張する人たちの中には、「食糧危機は起きない」という人がいる。食糧が不足すれば農作物の価格は上がり、そうすれば農家の生産意欲が促され、食料生産が伸びるので十分な量の食料が常に確保される、というのである。

 

しかしこの主張は、食糧危機が食糧の価格高騰で発生するという歴史的事実を無視している。江戸時代の大飢饉でも、もし完全に公平な分配が行われたなら餓死者は出ずに済む程度の備蓄はあったと言われる。しかし価格高騰をみてどこの藩も在庫を抱え込み、出さなかった。それで多数の餓死者が出たのだ。

 

食糧はほんの少しでも足りないとなると極端に高騰する性質がある。「このままだと、自分たちも来年には米が買えないほど高くなるのでは」と不安になると、在庫を放出しようとしなくなる。それによって食料はますます暴騰する。庶民には手のでない価格となり、餓死していくのである。

 

「食料品の価格が高くなれば生産者はたくさん生産しようとする」というが、農産物が育つには何ヶ月もの時間がかかる。金持ちは金にあかせて食料を購入することができる。しかし庶民は高い食料は買うに買えず、餓死してしまう。1ヶ月も食べなければ人間は死んでしまうのだ。

 

他方、生命維持に必要なカロリーはごまかしようがない。日本人を飢えさせないで済む食糧の量も明確だ。カロリーベースで思考することは、実態把握をする上で不可欠なことである。

 

しかし、単純なカロリーベース思考にも警鐘を鳴らしておかなければならない。「ものが売れる」ということは技術的に非常に難しいこと。農業関係者は商業者の苦労を軽くみる傾向がある。それが日本農業の低迷を招いたのもまた事実なのだ。

 

日本の農産物がよく売れるようにすること。食糧を量的に十分に確保すること。この二つを両立させなければならない。金額ベース思考もカロリーベース思考も、どちらかだけに偏ることは極めて危険である。両にらみで進めなければならないことを、どうかご理解いただきたい。