2010年5月18日火曜日

ガサツな日本4(植民地支配)

最近、良く耳に入るのが、「植民地支配というのはインフラ整備なんかで、意外と恩恵を与えたものなのだよ」という議論である。 ダムの建設や都市整備など、現在の韓国や中国の発展につながるインフラを日本から資金を持ち込んで作ったのだから、むしろ感謝してもらってよいくらいだ、というのである。 おそらく、こうしたことを平気で言えるのは、プライドのない人だろう。 つまり、この人たちは、逆の立場であったら、涙を流して感謝の言葉を述べるといっているわけだから。 私にはとてもそんなことはできない。
私は自分をネタにして笑いを取る大阪出身だが、あいにくそこまで自分を貶めるほど、プライドを捨てることができない。 10万円やるから公衆の面前で靴をなめろ、と言われて、そのとおりにするほど私はプライドを折ることができない。 植民地支配をよいものだという人は、靴をなめることができるらしいし、その上で「10万円ありがとう!」と感謝の言葉まで述べることができるのだという。 とても私には真似ができない。 ある意味、見上げたど根性である。 植民地支配を逆に受けたとしても、独立を目指すどころか、支配してくれた国に感謝申し上げるというのだから。 とてもとても、私には真似ができない。
私には、他人から見ればつまらないかもしれないが、それなりの矜持(プライド)がある。 そして、己の尊厳を冒されるくらいなら戦おうという気持ちを持っている。 また、同じように気位を高く持っている人間を私は尊敬する。 自分の国が二等国扱いされて怒らないようでは、むしろダメだろう。 プライドがあるなら、怒って当然だ。
日中韓のみならず、アジア地域はプライドを大切にする国である。 面子、面目、矜持、誇り・・・ プライドを意味する言葉が数多くある。 だから、アジアではプライドを傷つけるようなことをもっとも戒める。 たとえ金銭的には恩恵であっても、それがプライドをつぶすようなやり方であれば、許されることではないという文化を築いていた。
・・・島田洋七著の、「がばいばあいちゃん」に出てくるエピソードがある。 島田少年は非常に貧しかったため、梅干一個のおかずなしの日の丸弁当を、運動会の日でも持っていった。 さすがに恥ずかしいし、おばあちゃんは仕事で運動会にこられないので、一人で教室に戻ってお弁当を食べようとした。 すると先生がやってきて、「おまえ、ここにいたのか。実は先生な、おなかをこわしてしまったんだ。おまえ、梅干の入った弁当を持ってきていたろ。すまんが、私の弁当と交換してもらえないか。」といって、自分のおかずがいっぱいの弁当を差し出した。 そんな豪華なお弁当を食べたことのない島田少年は、びっくりしながらそのお弁当をほおばった。
その翌年の運動会でも同じように日の丸弁当だったので一人でこっそり食べようと教室に入ると、また、新しく担任になった先生が来て、「先生、おなかをこわしてしまってな。おまえ、梅干の入った弁当を持ってきていたろ。私のと交換してくれないか」と頼んだという。 その後も毎年、違う担任になっても運動会の日になると必ずおなかをこわして、島田少年のお弁当と交換してもらいたがったという。
後年、そのことを思い出しておばあちゃんに語ると、滂沱と涙を流して、「人に何かをしてあげるときは、それとわからないようにしなければならないよ」と諭し、壁の向こうへ、手を合わせて頭を下げたという。
・・・島田少年は貧乏だった。おかずのまったくない梅干弁当とおかずが満載の豪華な弁当を比較すれば、もちろん後者の方がよいに決まっている。 しかしもし、上記の先生たちが「おまえは貧乏でこんな豪華なお弁当はなかなか食べられないだろう。どうだ、食ってみろ」という言い方をしていたらどうだったろう。 島田少年は怒り、毒づいてその場を立ち去ったろう。 プライドを傷つけられたことに血の涙を流しながら・・・。
島田氏が少年のときには、まだ日本にはそうした心遣いがあたりまえにできる人が多かった。 奥ゆかしい人たちが大勢いた。 なのに、「ダムを作ってやったんだ、インフラを残してやったんだ、感謝しろ」と平気で言う人が増えた。 なんとガサツな人々ばかりになったのであろう。 なんと醜悪な国になったのであろう。
植民地支配は恩恵である、という人がもし島田少年の担任であったなら、豪華な弁当を食べさせてやるといって島田少年に毒づかれたあと、こう思うのだろう。 「せっかく貧乏なあいつを哀れんで、豪華な弁当を食べさせてやろうとしたのに、感謝の言葉もいえないなんて、ろくでもないガキだ。」 自らの心の卑しさに気づきもしないで。
・・・仏教では、布施行は特に難しい行であるといわれる。 私たちは、執着心が強い。 物を人に上げるのが惜しいから、「上げるからには、感謝を代わりによこせ」という取引をしようという欲が出る。 もし感謝されなかった場合、「恵んでやったのに感謝をしなかった」と怒る。 執着心を離れ、相手のプライドを傷つけず、施しをするということは極めて難しいことなのである。 しかし日本人は、島田少年の先生たちのように、布施行をごく自然に行える人たちであふれていた。 心やさしい人たちがたくさんいたのだ。
昨今、ODA(政府開発援助)で途上国に恩を売って鉱山などの採掘権を牛耳り、国益を図ろうということを公文書で平気で書くようになったようだ。 なんとも意地汚い、ガサツな国になったことの証だと思えてならない。 なんとガサツな、なんとガサツな、なんとガサツな・・・!
・・・島田少年のみならず、見事な「布施行」にあずかった人は、いつか自分もそうした布施行を行おうと思うようになるものである。 そうして、奥ゆかしい人が増えていく。 札束で人の顔をたたくような人間が増えれば、ガサツな人間が増えていく。
いずれの道を日本は歩もうとするのか。 ガサツな国への道を歩もうというのか。 だとすれば、日本人の少なからぬ人間が、「雪の女王の鏡の欠片」が目に入ってしまったのだろう。 美しいものが醜く見え、奥ゆかしいものが惰弱に見え、深い自己省察を自虐的と難じ、心やさしいものをお人よしと罵倒し、 ガサツなものを勇ありと勘違いし、醜悪な利己心を忠誠心と思い違いし、他国を罵倒することを自国を守ることだと惑乱する。 愚かな、愚かな、愚かな!!
日本よ、己の姿を今一度鏡で見つめよ! 己の顔が、醜悪にゆがんでいくその様を直視せよ! そしてその奥底に封印されている、輝きを取り戻せ! 本当に大事にしなければならないのは何なのか、思い出せ!

ガサツな日本3(愛国心について)

愛国心を言い立てる人の中に、他国をやたら悪く言う人が少なくない。 まるで、愛国の情は他国の嫌悪とセットでなければならないと思っている節があり、特に中国や韓国のよいところを指摘すると、まるで愛国心がないかのように批判されるという憂き目に遭う。 「自分の国が一番」と訴えることこそ愛情の証と考えているのだろうか。 だとすれば、愚かな話である。
・・・愛情の深い、そして賢い母親は、我が子のことをこんな風に言う。 「世間から見れば何の変哲もない、むしろいろいろ至らないところのある子かもしれませんが、私にはかけがえのない、かわいくてたまらない子なのです。」 ほかの何ものにも代え難い、深い愛情を抱きながら、我が子を客観視する冷静さも併せ持つ。 賢い母親はそういうものだ。
ところが、愛情は深いが愚かな母親というのもいる。 我が子が一番、自分の教育方針は絶対正しいと思い込み、批判めいたことを一切許さず、噛み付いてばかり。 「ウチの子が悪いって言うんですか!よその子だってやってることじゃないですか!ウチの子はちっとも悪くないです!」 万引きをしたら、「万引きをすることになった、この子の気持ちを考えてやってください」とお店の人に言う(なんじゃそれは)。 いわゆる「モンスター親」にはこうしたタイプが多い。 そして、子どもをダメにする。
愛情は大きなエネルギーとなる。 愛することは悪いことではない。 けれども、愛情に溺れ、自分の愛するものを他者も一番に愛さなければならないと思い込み、批判すれば噛み付くというのは、愛情とは呼べない。 それは、愛情ではなく痴情である。
愛情は確かに、深浅がある。 近しく親しいものに深い愛情を覚え、そこから遠くなるほど愛情は薄くなる。 それでよいと思う。 私は、博愛の精神というのを胡散臭いと思う。 すべてを愛する博愛は、神ではない私たちには、実践が難しい。 その現実は認めなければならないと思う。
だが、自分の好きなものだけを愛し、その他のものには一瞥もくれないという心の狭さは、愚の骨頂である。 たとえ愛情は湧かなくても、他者をないがしろにすればいずれ自分の愛するものさえだめにしてしまうということを知る、賢さが必要だ。 周囲の子どもたちに「ウチの子をよろしくね」といって、配慮する賢さがあれば、周囲の子どもは我が子を大事にしてくれよう。 だがもし、愛情が湧かないからといって、よその子には冷たい態度をとる愚かな行動をとれば、愛する我が子がいじめられることにもなりかねない。 愛情ではなく、痴情であるというのはそのためだ。 自国を愛し、批判には噛み付くという愛国者は、そのその心の狭さのゆえに国を誤らせ、ダメにする。
愛国心を訴える人に申し上げておきたい。 もし本当に国を良くしたいのなら、愛国心だけではダメだ。 愛するものを良くするには、4つが必要である。 ひとつは愛情。自分の故郷とそこに住み人々に愛着があると、その人たちのために何かをやろう、というエネルギーになる。愛情は、エネルギーの源泉として確かに必要だ。 しかし、あと三つがなければならない。 二つ目に、知識である。いろいろな国の、いろいろな人々の生き方、文化を知り、それぞれの長所を認める客観的な知識である。明治維新のころ、政府要人のほとんどが海外に行き、新日本の将来を決めるための知識を貪欲に吸収した。尊皇攘夷を愛の証と考える偏狭さではなしえない英断であったといえよう。このとき持ち帰った知識があったればこそ、日本は西洋列強に飲み込まれずに済んだといえる。 三つ目に、知識を血肉にする、現場力である。たとえば、教育マニュアルどおりに子育てしようとして、うまくいかない若い親が結構多いのが目に付く。子どもは一人一人違うので、マニュアルどおりにいかないことばかりだ。マニュアルは概論でしかないので、一人一人に適したやり方は、目の前にいる子どもから学び取ることが必要だ。目の前に起きていることから学び取る、現場力によって知識と現実とのすりあわせをしなければ、知識は文字の知識で終わってしまう。 四つ目に、実行する勇気だ。いくら知識があっても、現実に何をしなければならないかが分かっていても、行動しなければ始まらない。実行力がなくては、何もなしえない。
愛情、知識、現場力、実行力。 その4つがそろわなければならない。
愛情をエネルギーにして、誤った考えをもたないよう、知識を吸収し、その知識が文字だけの知識に終わらないよう、現場とのすりあわせをする現場力を備え、その上で実行する。 これらの要素がすべて組み合わさってはじめて、物事はうまく進みだす。
・・・農業でたとえれば、愛情は水遣りのようなものだ。 愛が強すぎるあまり、外からの批判を受け付けないのは、植物を水浸しにして根腐れさせてしまうようなものだ。 程よい水量(愛情)を適切な時間に与える、知識が必要だ。 そして、天候を見ながら水遣りの量を変える、現場力が必要だ。 そして何より、実際に水遣りする実行力が必要だ。
もし自分を愛国者と任ずるのなら、せめてこの4つが必要であることを知らねばならない。 批判を受け付けないのは、愛情ではなく痴情であることを知らねばならない。